脊髄小脳変性症を患って人生が変った話です

私が難病の脊髄小脳変性症を(せきずいしょうのうへんせいしょう)を患ってからおよそ18年が経ちます。

実の母親も同じ病気にかかっており、私の場合は遺伝と診断されたのです。

この病気になってから母親がどれだけ辛い日々を送ってきたかが今になってわかってきた感じがします。

何をするにも転倒して頭などを怪我しないように慎重に行動するあまり、健常者と比較したら何倍もの時間と労力が必要です。

トイレでも少しの距離である一方、テキパキといかないので行きたくなったら即動けるようにしています。しかし突然の下痢などは冷や汗もので対応しているのです。

ちょっと油断をするとふらついてそんな時は歩行器を使っているものの、転倒しそうになってしまうこともあります。

そういえばこの病気をメインにしたドラマをかつてテレビで放送していたのです。主人公が脊髄小脳変性症にかかり、本人とその家族の奮闘を描いたものになります。そのドラマの名は“1リットルの涙“といった実際にあった話です。

主人公はまだ高校生といった若い歳で発病し、これからの貴重な人生が台無しになってしまう辛さをドラマでは表現していました。

私自身のことを書くと最初は何気ない仕草の時に若干のふらつきを感じていた一方、仕事をやるにはさほど支障がなくて病院にもかからずに普通に行っていたのです。

しかし10年ほど前には通常に歩くのも困難になってしまいました。車での通勤も視差といってものが左右の目に映る遠近や奥行きに差が生まれ、自力で運転することもできなくなっていったのです。

このようになんらかの病で今までできていたのができなくなる悔しさは計り知れないし、当事者になってみなければわかりません。

ただそのような時でも私は前を向いたのです。

仕方なく、働いていた会社を退職といった道を選んだのです。退職する前には最後の手段として1年間は休職といった方法をとりました。その間は無給だったので、健康保険に傷病手当金を申請して給料の7割を受け取っていたのです。申請は毎月行っていて期間は支給開始した日から最長1年6ヵ月となりました。私の場合は障害年金を途中から申請・認可されたので、それからは2級として2ヶ月ごとに支給されるのです。

これに関してはほとんどの方が社会保険労務士を通してするものの、私は年金センターで申請書をもらいました。ネットで書き方を調べて記入して申請・認定まで行ったのです。社会保険労務士に申請代行を依頼して認可が下りた時点で成功報酬を支払わなければならず、その平均額は年金の2ヶ月分となりました。これが多いか少ないかは判断が分かれるでしょう。

今では介護保険の要介護1の認定を受けて外出時には車イス、室内の移動には歩行器をレンタルしています。ただ1人での外出は困難なので通院以外は家の中での生活がメインです。

前の会社を退職して2年ほど無職で過ごしてきており、その間は社会から取り残された感が非常に高くて悶々(もんもん)とした日々を過ごしていました。

そんな時にハローワークからの紹介で在宅での仕事であった一方、社会復帰することができたのです。

何が困るかといえば宅急便や来客時の玄関までの対応はすごく時間がかかります。インターホンに対応するまでもかかってしまうため、不在と勘違いされ
て出る時にはいなくなっていることもあるのです。そんな時は自分の不甲斐なさを痛感して落ち込むこともあります。

この脊髄小脳変性症は効果のある薬がなくていまだ治らない病気であるものの、今後において新薬が開発されることを待ち望んでいるのです。その中で開発の動きはある一方、進行性がある病気で時間との戦いを強いられています。